文字サイズ小
文字サイズ中
文字サイズ大
リンク
サイトマップ
お問い合わせ
平成21年9月1日号
栄養科学と人々の生活との接点
元国立健康・栄養研究所長
人間総合科学大学大学院教授 小林 修平
科
学が人々の生活と健康にかかわる政治・行政にどのようなかかわり方をしてきたか(あるいはするべきか)という課題については、これまで多くの議論をよんできた。特に、生活のあらゆる面においてグローバリゼーションの影響が飛躍的に浸透してきている現代では、もはや全世界の国々が共通の基盤に立って考えていかねばならない重要な問題となっている。
ち
なみに現在は「100年に一度」とも言われる、地球全体を巻き込んだ米国発の未曾有の経済不況である。ごく最近放映されたニュース特集によれば、米国の一握りのトップレベル金融工学者が開発した数式モデルのウォール街金融業者間での爆発的ブームが事の発端とされている。
さ
らに同特集ではこれを1940年代の米国における一群の原子核物理学者による核分裂の研究がもたらした核開発競争による世界的危機になぞらえて、科学的大発見がその成果の政治的・構造的運用によって、ときには地球的規模での計り知れない悲劇を招くと指摘している。おそらく科学はある時点で科学者のアカデミックな興味から離れて、非専門家である政治・行政の手によって人々の生活に予想外の重大な影響をもたらす危険性をはらんでいるということであろう
私
自身のことになるが、専門家としての私の経歴は、まず基礎的な生化学研究から始まり、その過程で最先端の分子生物学の世界を覗き見る一方、マクロとして人を対象とした臨床医学的研究の一端にもかかわり、ついで栄養生理学研究からヒト集団レベルの行政支援的健康づくり研究、さらにWHO/FAOの栄養分野にかかわる日本の窓口を担当、研究プロジェクトの評価や研究者人事などの研究マネジメントの仕事を経て、現在は栄養学教育に従事、と極めて多彩な分野での経験を積むという、幸運に恵まれてきた。少々傲慢な表現をお許しいただけるならば、少なくとも栄養学周辺についてはある程度広範な背景から包括的な視点で物を言わせていただけるものと自負している。わが国における栄養学教育とその啓蒙に出版業務を通じて大きな貢献をされてきた建帛社が、このたび創業五十周年という記念すべき年を迎えるに当たり、栄養学の面からこの課題について考えてみたい。
上
述のような巨大規模の研究とはいささか趣を異にする栄養学ではあるが、一方で科学として人々の日常の健康や生活と密接に関係しているゆえに、保健行政と深く関連してきた経緯がある。よく知られた事実であるが、古くは国民病とも言われた脚気をめぐる高木兼寛と森林太郎との論争が、国民保健に及ぼした大きな影響は古典的栄養欠乏症時代を象徴する事件であった。わが国の急速な経済社会的近代化は全く異質な疾病構造をもった生活習慣病、特に新しい国民病といわれる糖尿病・メタボリックシンドローム時代をもたらしているのは周知の事実である。
さ
て、かつて一連のビタミンの発見により保健行政に飛躍的に有効な国民健康施策の手段を提供してきた栄養学は、この大きな転換に際してどのような役割を演じてきただろうか。健康で活動的な高齢時代を構築するという保健行政に対し効果的な支援をしてきただろうか。
ど
のような食事をとれば健康を維持できるかを最終目標とする栄養学は、もはや古典的栄養生理学的手法は無力であることを知ることになる。対策の短期的有効性を求める保健行政側は、より説得力のある手法としてヒト集団を対象とする栄養疫学に期待する。しかし、本来特定単一な病原による高確率で発症する疾病や障害の対策からスタートした疫学が、生活習慣病という多要因(定量化しにくい心理的因子を含む)かつ低確率(そのため統計的に高い精度が求められる)などの不可避な課題を超え、実践上の有効性を行政側に説得できるレベルに達せしめるにはなお多大な困難を伴うことが、多くの予防医学的アプローチを通じて明らかになってきた。
で
はどうすればよいのか。やや飛躍した私見を許していただければ、重要なのは当面の科学レベルに基づき、どのように実践面で対応したらよいか、最善の選択を得るための科学が求められているということではないだろうか。程度の差こそあれ、核問題や世界経済をめぐる難題も、その運用を冷静に評価・予測する科学の発展が(少なくとも多くの人々を納得させ、冷静に対処させることにより)解決への近道になるのではないかと考える。
も
ちろん、そのためには自然科学のみではなく、広く人文・社会科学を含む広範な専門分野の協力態勢が必要となるだろうし、一方で政治・行政における科学界と同等の透明性とコミュニケーションが不可欠であるのは言うまでもない。
基
礎科学と人々の日常の食と健康という、実践面との間に大きくまたがる特性を具備した栄養科学が、そのようなアプローチのモデルとなることを念願しつつ、建帛社の今後ますますの発展を祈念したい。
目次に戻る
「つくし」トップページに戻る