建帛社だより「土筆」

平成22年9月1日

三千点余の豊田家文書の長い旅路

保育史研究会 高橋 清賀子この著者の書いた書籍

 1876(明治9)年東京女子師範学校附属幼稚園が開設されてから41年後の1917(大正6)年に同園主事となった倉橋惣三は,園内の倉庫に残されていた開園以来の資料を見て,これなら草創期の幼稚園史が書けると喜んだという。



 かし6年後の1923(大正12)年の関東大震災により,すべてが焼失してしまった。その6年後,茨城女子師範学校講習の講師として水戸入りした倉橋は,田見小路の自宅に84歳になる豊田芙雄を訪ねた。幼稚園史の資料についての教えを乞い,生き字引がここにいてくれるなら,今なら書けると安堵したという。



 紙の若草色が美しい1941(昭和16)年2月発行の『幼児の教育』(日本幼稚園協会)の中に,―豊田芙雄女史御慰安会に列して―併せて,貴重な幼稚園史資料の数々―倉橋惣三と芙雄が並ぶ貴重な写真と共に「豊田芙雄女史が,我国最初の幼稚園保姆として,国宝的な存在であられることはいうまでもない―」という倉橋の一文がある。



 雄はこの10か月後の12月1日に,孫の健彦夫婦,2歳になった曾孫の私を含め家人に囲まれて安らかに旅立った。勿論,前記の『幼児の教育』にも目を通し,なつかしく,ありがたく心に抱きしめて逝ったはずである。97歳であった。



 週間後の12月8日,大東亜戦争突入。戦争が激しくなる中で,私たちは水戸から下総の地,北小金に疎開した。東京の林野庁に通う父が,毎夜どんなに遅くなろうとも掘り続けた防空壕は,庭先から敷地西端の鶏小屋に抜ける,十四,五米の長さと一,三米の高さがあった。ある日空襲警報が鳴った。乳飲児を抱えた母と弟達が駆け込んだ。遅れた私は入る隙間がない。頭上,低空をB29が通り過ぎた。このとき私は,この家には生命より大切なものがあると知った。防空壕の中は桐のタンスに詰められた文書でいっぱいだったのだ。水戸の蔵に残した家財はB29の焼夷弾攻撃ですべて焼失した。



 後の大水害,隣地の火事等に際し,父は大声で般若心経を唱えて,火の粉をあびながら必死に文書を守った。



1949(昭和24)年,私がまだ小学生の頃,学生二人を連れた倉橋先生が我が家にみえた。

「広島の大学にもお茶の水女子大学にもそれなりの資料を差し上げてきました。焼失した,紛失したと申されても,芙雄が守ってきた大切な資料をこれ以上散逸させないよう守るのが,遺族の役目と思います。お引取り下さい。」

中にお通しもせず玄関先で,巨体のうえに厳しい口調の父に,廊下の曲がり角で私は震えた。



 6年後のある日,父が中学校へ私を迎えに来た。確か中野駅近くのご自宅での倉橋先生のご立派なご葬儀であった。「倉橋先生,お役に立てなくてごめんなさい」と強くつよく手を合わせた。父はもっと……。



 1987(昭和62)年,健彦,娘清賀子の家で逝去。その後この文書は私がその保存を引き継いだ。今年,『豊田芙雄と草創期の幼稚園教育』が建帛社より刊行された。父が守った文書を元にした研究が一冊の書にまとまったのである。

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第92号平成22年9月1日