建帛社だより「土筆」

令和5年9月1日

何回咀嚼すれば

国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構食品研究部門 神山かおるこの著者の書いた書籍

 べることは,すべての人が日常的に繰り返している。嗅覚,視覚,聴覚,触覚,味覚という五感のすべてを使って,対象となる食品を認知,つまり味わっている。

 間は,生まれたときにはミルクしか摂取できないが,離乳期から幼児期にかけ食べられる食品の範囲が広くなり,食べる経験を重ねて学習し,各食品に適した食べ方ができるようになる。もともと唇や舌先は,きわめて触覚の感度が高い部位で,高齢になっても低下しにくいことが知られている。むしろ運動機能の低下による,歯の喪失や筋力の低下などと要因は様々だろうが,習得していた食習慣が行えなくなると,生活の質(QOL:Quality of Life)が下がってしまう。

 感のひとつである視覚情報は,食品をみつけ,その特性を判断するため重要である。しかし,ひとたび口の中に入った食物は,自分だけでなく他人からもみえない。したがって,食べ方を決めているのは口の中で生じる食感テクスチャーと,食べているうちに変化するフレーバーであろう。

 年か前から個人的に興味をもち,ウェアラブルの咀嚼センサーを試している。日常食では咀嚼回数がだいたい安定していることに気づいたり,想像より咀嚼しない食品が偶然にみつかったりして楽しい。また,同じ食品でも体調が悪いと咀嚼回数が増えており,忙しいと咀嚼時間が短くなっていることが発見できた。筆者は,もっと本格的な装置を用いた咀嚼研究を30歳前後から行っている。還暦の現在では,若いころより咀嚼力が落ちて,食べ方が変わっていることをときどき実感している。このウェアラブルの咀嚼センサーで,もっと長期に測定することができれば,高齢期における咀嚼の変化を自身でみられる世代になるのであろう。

 のセンサーを使う際に,1日3食で2,500回の咀嚼が推奨されている。1か月で75,000回,1年で約90万回,10年で900万回,もし100年噛み続けることができれば9,000万回となる。でも,よく噛める人は一噛みで食物を噛み砕く能力が高いため,同じ食品を効率よく食べることができる。能力の高い人しかできない早食い(なぜ速食いといわないのか,不思議な気もする)が,必ずしも悪いわけではないだろう。しかし,味わうという観点も含め,多くの刺激を楽しめる時間が短くなってしまうのは残念な気がする。

 年,AI(人工知能)がブームである。メニューを前になかなか決められない人間の代わりに,個人ごとに適した食品をすすめるAIも研究されている。

 Iが学習するのは,視覚と聴覚で再現できるデータが得意分野のようである。では,人間の日常行動のうち,五感を全部使い,また視覚で観察されていない“みえない”食感データは,AIで解析できるだろうか。1人あたり1年分の咀嚼回数90万回は,AI学習に十分そうな数ではある。でも,最適食はAIで予測できない最後に残るもののひとつではないかと筆者は予想している。なぜなら,みえないことに加え,個人差が大きく,一噛みごとに変化する複合的な性質で,繰り返しが難しいからである。


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第118号令和5年9月1日

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