建帛社だより「土筆」

令和6年1月1日

授業研究から得るもの

早稲田大学教授 大泉義一この著者の書いた書籍

 育・授業において「主体的・対話的で深い学び」の実現が求められていることは周知の通りである。その実現に関して,中教審答申は次のように述べている。「『主体的・対話的で深い学び』とは,特定の指導方法のことでも,学校教育における教員の意図性を否定することでもない。(中略)子供たちに求められる資質・能力を育むために必要な学びの在り方を絶え間なく考え,授業の工夫・改善を重ねていく」。つまり「主体的・対話的で深い学び」とは,何か特定の「型」を要求するものではなく,その実現をめざして,絶え間なく,授業・保育の工夫・改善を重ねていくこと,すなわち日々の実践に即した「授業研究・保育研究(レッスンスタディ)」(以降「授業研究」と記す)によって実現されるものなのだ。


 方で,多くの実践家が「授業研究」という言葉からイメージするのは「研究授業」であり,そこには「骨が折れる」「できれば避けたい」という感情が付随していることが多い。こうした授業研究に対する認識をあらためたいところである。


 そもそも私たちは,何のために授業研究を行うのか。この問いに対する明確なこたえをもつことが必要である。なぜなら極言すれば,授業研究をしなくても授業をすることは可能かもしれないからである。


 は,何のために授業研究を行うのか。そのこたえを一言でいえば,「自身の授業・保育に不満があるから,それを解消するために行う」ということに尽きる。そのため,研究授業のような特別な機会だけでなく,日々実践している授業を対象にし,その成果は即座に子どもや実践へと還元されるべきといえる。つまり,授業研究に取り組むことが目的ではなく,授業研究を通して何かを得ようとすることがめざされるべきである。


 に,どのようなことが得られるのだろうか。授業研究では,子どもが何をどのように学んでいるのか,という子どもの見とりから,学びを支え促進するための学習指導のあり方を考えていく。


 とりは,教師・保育者一人ひとりの「子ども観」,「教育観」,「授業・保育観」に根差しているので,ひとつの授業・保育をめぐる解釈と考察は多様な広がりをみせることになる。たとえば,授業・保育の同じ場面をみていても,その意味の解釈は,参観者の五感を通じたアンテナの感度に委ねられる。ゆえに,見とりの交流においては,互いの解釈や考察に優劣をつけるのではなく,むしろその「ズレ」を尊重しあえる仲間が必要である。そうした仲間との見とりの交流から,授業・保育に対する新たな見方や考え方の更新が促されるのである。


 業・保育が,教師・保育者にとってもっとも大切な仕事であることに疑いの余地はなかろう。ただし,それは決して,授業・保育が上手くできるということや,指導技術が巧みであるということだけをさすのではない。授業研究を通して,授業・保育や子どもに対する見方や考え方を更新することが何よりも大切であると考える。授業研究によって得られることとは,「役に立つこと」というよりは,「意味があること」なのである。

目 次

第119号令和6年1月1日

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