令和5年1月1日
人類的課題を解決するツールとしての栄養学
東京大学大学院助教 村上健太郎この著者の書いた書籍
最近の推計によると,地球上の8億2,000万人以上が栄養不足である一方,肥満または過体重の成人は19億人に達しています。不健康な食事は,疾病罹患と早期死亡の主な要因であり,危険な性交,飲酒,薬物,喫煙に起因するすべてのリスクの合計よりも,食事単体によるリスクのほうが大きいと考えられています。このような食に関連する健康問題とその社会への影響の大きさを考えると,栄養学において,食の健康影響を解明することの重要性はますます大きくなっているといえます。
しかし,現在の栄養学がその射程に収めるべきなのは,食の健康影響だけではありません。食の環境影響についても考える必要があります。例えば,食料生産は環境破壊の最大の要因です。農業用地は地球上の利用可能な土地の40%を占め,食品の生産過程で排出される温室効果ガス量は全体の30%,使用される淡水量は全体の70%にのぼると推定されます。世界人口が今後も増え続けることを考えると,持続可能な社会の実現のためには,現行の食システムの抜本的改革が不可欠です。
このような食にまつわる健康・環境問題に対し,現時点で提示されている解決策は,生産者や供給者,行政などからの視点に偏っているように思われます。例えば,持続可能なかたちで食料生産効率を上げるとか,健康的な食品の生産や流通を促す政策を立てるといった具合です。
一方,食システムで欠かせない役割を果たす生活者である私たち一人一人が,日々の生活の中で何をどのように変革していけばよいのか,という視点からの解決策はほとんど提示されていないのではないでしょうか。これは究極的には,食にまつわる生活者の行動が十分に解明されていないためであると思います。
食に関する生活者行動は,食品の入手(購買),調理,摂取,廃棄からなる連続的なプロセスですが,今までの栄養学は調理と摂取の部分にその力点を置きすぎていたように思えます。
もちろん,個人がどのように食べるかを規定するのは,個人レベルの要因だけではありません。近隣の食環境や食料生産・流通システムなど,社会をかたちづくる様々なレベルの要因が関係しています。さらに,これらの要因は互いに影響を与え合っているでしょう。こうした枠組みを理解したうえで,個々人の食行動に関連する要因の解明や,望ましい食行動を促す社会の仕組みをつくることが,今日の栄養学の大きな課題といえるでしょう。
「食」にまつわる健康課題や環境問題は,すべての人に関係しているだけでなく,あらゆるものとつながっているといえます。つまり,栄養学は,食を中心にして世の中のほとんどすべての事柄をその研究対象にできる可能性を秘めているのです。「食べ物や栄養を中心に据えて,人間集団の中で起こっていることを明らかにし,食にまつわる諸問題に対する有効な対策樹立に貢献するための科学」である栄養学を,社会はもっと賢く活用するべきでしょう。
目 次
第117号令和5年1月1日
発行一覧
- 第121号令和7年1月1日
- 第120号令和6年9月1日
- 第119号令和6年1月1日
- 第118号令和5年9月1日
- 第117号令和5年1月1日
- 第116号令和4年9月1日
- 第115号令和4年1月1日
- 第114号令和3年9月1日
さらに過去の号を見る
- 第113号令和3年1月1日
- 第112号令和2年9月1日
- 第111号令和2年1月1日
- 第110号令和元年9月1日
- 第109号平成31年1月1日
- 第108号平成30年9月1日
- 第107号平成30年1月1日
- 第106号平成29年9月1日
- 第105号平成29年1月1日
- 第104号平成28年9月1日
- 第103号平成28年1月1日
- 第102号平成27年9月1日
- 第101号平成27年1月1日
- 第100号平成26年9月1日
- 第99号平成26年1月1日
- 第98号平成25年9月1日
- 第97号平成25年1月1日
- 第96号平成24年9月1日
- 第95号平成24年1月1日
- 第94号平成23年9月1日
- 第93号平成23年1月1日
- 第92号平成22年9月1日
- 第91号平成22年1月1日
- 第91号平成21年9月1日
- 第90号平成21年1月1日
- 第89号平成20年9月1日
- 第88号平成20年1月1日