令和7年1月1日
栄養における分子栄養学
大阪公立大学教授 叶内宏明この著者の書いた書籍
食べること,料理をすることが趣味である私にとって,栄養学を教えることはしばしば自己矛盾を生じる。「おいしい食事」はオイリーで,しっかり味付けがされていて,健康的ではないことが多い(薄味でおいしい料理も当然ある)。自身で調理する際,極力薄味に努めているつもりであるが,自宅で減塩についての講演準備をしている際に小学生の息子と妻から総ツッコミされたばかりである。
栄養相談は日本人の食事摂取基準を念頭にした説明となる。しかし,適切な基準に基づいた食事であっても,期待するような改善が得られない場合がある。その理由の一つに,各個人の遺伝子の多様性が影響している可能性が考えられている。これは,分子栄養学がかかわる領域であり,各個人に見合った個別化栄養,精密栄養といった,いわゆるプレシジョン栄養学の基盤となる。不健康な食事だと指摘を受けそうな私ではあるが,現在のところ生化学検査値に際立った異常はない。「これくらいは個人差の範囲内で大丈夫」と管理栄養士にはあるまじき屁理屈を考えながら好きな料理を楽しむ。
栄養とは,食物成分が消化吸収され,体内で様々な代謝を受けて排泄されるまでの一連の現象である。その現象によって生体機能は維持されている。この栄養は様々なタンパク質が適切な場所で,適切な時間に,適切に活性化することで成り立っている。すなわち,栄養を理解するためにはタンパク質を理解する必要がある。
タンパク質の理解とは,遺伝子情報をもとに合成されるタンパク質の発現調節,産生されたタンパク質の構造および機能を決定する様々な修飾がどのように制御されるか,タンパク質分解の制御などを理解する必要があり,分子生物学の知識が求められる。
私はビタミンB6が高齢者の健康に関係するかについて研究を進めている。免疫機能にも関与するB6は,加齢に伴い血中濃度が低下することや,フレイルや認知症では血中濃度が低いことを,ヒト観察研究から明らかにしている。しかし,観察研究であるため考察では因果関係やメカニズムについては推測でしか論じられずつらい状況である。また,加齢に伴い血中濃度が低下する原因も不明なままである。B6は摂取する量が増えれば血中濃度は増加するが,個人によって摂取量と血中濃度にばらつきがあり,相関性が低い。これらの原因も依然不明である。B6の吸収や代謝にかかわるタンパク質に遺伝子多型があると推測し,分子栄養学的観点から研究中である。
分子生物学にかかわる分析技術の進歩によって生命現象の理解が加速している。まだ当分先のことではあるかもしれないが,どのように栄養が制御されているかについて完全に理解される日が来るかも知れないと思うとワクワクする。
分子栄養学の理解が進み,精密栄養が展開されることは「栄養の力で人々を健康に,幸せに」の基盤の一つになるだろう。一方で私の食生活にはさらに矛盾が生じ,悩む自身の姿を容易に想像できる。欲を出しすぎではあるが,分子栄養学の知見が,おいしさと健康を両立する食事の提案にもつながることを願う。
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