共生社会の実現に向けて、「共生」をキーワードとして教育・保育、社会福祉、心理の各研究者十数名が様々なテーマで論じる。インクルーシブ教育をはじめとした研究実践を豊富に記述。まさに時宜を得た論集。
内容紹介
まえがき
序文 「捨我精進」と「共生」
田園調布学園大学 学長
生田 久美子
田園調布学園大学の建学の精神は「捨我精進」という思想である。この言葉は,田園調布学園大学の母体である調布女学校の初代校長の川村理助による命名であるが,その意味は「我情,我欲,我見といった『我』を慎み,物事を一生懸命に実行する」ことにあり,現在は大学,中・高,幼稚園,こども園を含む調布学園全体に共通する教育理念として掲げられている。
「捨我精進」という四文字からは,一見「自己犠牲」や「滅私」といった封建的な思想に重なる印象を受けるかもしれない。しかしながら,この思想を文字から受ける表面的な理解を超えて深く読み込んでいくと,「自己犠牲」や「滅私」という前近代的な思想とはまったく異質な,現代の学術における極めてラディカルな思想の先駆としての一面が見えてくる。例えば,現代における共生論をめぐる議論は,近代的な自立論における個別的価値を優先する議論を超えて,他者を視野に入れた関係論的な議論へと姿を変えつつある。現在,認知科学や教育学において注目されている関係論的な教育論は今日広く受け入れられ,また実践に活かされてもいる。
私はこれまで教育における「知識とは何か」「理解とは何か」という哲学的な問いに基づく研究を進めてきたが,近年,そうした問いに対する新たな共生論的アプローチに関心を向けている。それは,Negative Capability という概念を基盤とするアプローチである。
Negative Capability という用語は 19 世紀のイギリスの詩人であるジョン・キーツが卓越した詩人の特徴を描写する際に用いた用語であるが,現代においては精神分析や教育学の世界でも注目されている。キーツの次の言葉は印象的である。「詩人というものは個体性【identity】を持たない…詩人は絶えず他の存在の中に入ってそれを充たしているのだ」と個体性【identity】を持たないでいられることを「偉大な仕事を達成する人間」の才能であるという。 では,「個体性【identity】を持たない」とはどういうことか。それは,対象が人間であれ動物であれ現象であれ,対象への共感的な自我を通し想像力を働かせることによって直ちにそして直感的に理解するあり方である。詩人の卓越した特質は,知的・論理的な理解力というよりも,自らの個体性を消滅して他の存在に入り込むことにより可能となる「共感的理解力」を通して獲得される,とキーツは考えるのである。
教育学者の鈴木忠は Negative Capability を「何ものでもなくいられる力」と解釈した上で,例として,小学校教師の鳥山敏子の「自己を無にして何かになってみる」教育実践は,自意識や自己概念によって把握されている「自分」を超える教育体験であり,Positive Capability という明示化される概念では把握されない Negative Capability の発現の事例として捉えている。
Negative Capability という概念をめぐって語られる「共感的自我」「共感的理解」などの言説から導き出される,人間の共生的理解の拡張を志向する新たな視点は,すでに「捨我精進」という田園調布学園大学の建学の精神に埋め込まれ暗示されているものである。すなわち,「他者を受け入れる」「差異に開かれる」ための「捨我」をめぐる思考,そしてそれゆえにこそ単なる思考停止に陥ることなく知的営為に邁進する「精進」が可能になるという思想には,現代の学術および実践における「共生」の思想の価値を直感的に先取りした先見性を見出すことができる。
そこでは,まさしく「共生」と「捨我精進」が交差する場がつくり出されている。「共生社会」の実現に向けた様々な営為を支える「共生社会」の諸理論は,学術研究のみならず社会の変容を牽引する上で必須の学問としてさらなる発展が期待されることは疑いない。
本書が,「捨我精進」という建学の精神を教育的基盤として教育活動に邁進している田園調布学園大学の教育・研究者たちの手によって出版されることは,なにより,「共生社会」の実現に向けてより一層強いメッセージを発信することになると確信している。
* 本稿は, 生田久美子: 学術か ら読み解く「建学の精神」. 三田評論,2020;1249;4-5.の論考に基づている。
ま え が き
本書は田園調布学園大学(以下,本学)有志による共生社会研究会のメンバーで執筆したものである。社会福祉学科,共生社会学科,子ども教育学科,心理学科を超えて全学的な研究会を昨年 5 月に立ち上げた。「共生」というキーワードで,各教員のそれぞれの専門分野での実践研究を執筆してもらった。
本書を通して,共生社会の実現に向けた多様な視点や課題,そして可能性について理解を深めていただければと思う。共生社会とは,違いを認め合い,互いに支え合いながら,誰もが生き生きと暮らせる社会を指す。ただし,その実現は決して容易ではない。高齢化,少子化,グローバル化といった社会構造の変化,そして,貧困,差別,環境問題など,私たちの前には多くの課題が立ちはだかっている。本書において様々なテーマが所収されていることからも,それは容易に想像できるであろう。
とはいえ,困難な道だからといってその歩みを止めるわけにはいかない。一人ひとりが「自分は何ができるのか」を問い,積極的に行動していくことが重要である。本学の理念である「捨我精進」は,まさにこの精神を体現しているといえよう。「我」にとらわれず,他者のために尽くし,社会に貢献していく。そのために,日々努力を積み重ね,自ら成長していく。共生社会の実現は,この「捨我精進」の精神に基づいた,たゆまぬ努力によってこそ達成されるものと考えている。本書が,共生社会について考えるきっかけとなり,読者の皆様の未来への一歩を後押しするものとなることを願っている。
生田学長には序文をお願いしたところ,ご快諾いただき,多忙を極める時間の中で,「捨我精進」と共生について含蓄のある貴重な原稿を執筆いただいた。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。
全学的な研究会で自分の研究を発表し,相互に意見を交換する場面は新鮮で楽しく,研究魂にエネルギーを与えてくれた。また,執筆された先生方の力が結集しなければ,本書は陽の目を見ることもなかった。本書の編集は小山と江島が担当したが,研究会の牽引役として,和秀俊教授,藤原亮一教授にも多大 なご尽力をいただいた。この場を借りて感謝申し上げたい。
また,本書は本学の出版助成にあずかった。学長を始め副学長,関係者の皆様に御礼申し上げたい。
最後に建帛社編集部の根津様には企画の段階から刊行に至るまで丁寧に相談にのっていただき感謝の意を表したい。
2025 年 2 月
編著者 小山 望
江島 尚俊
目 次
第1章 インクルーシブ教育の現状と課題
-インクルーシブ教育実践校を訪問して-
1 わが国のインクルーシブ教育の現状
2 海外のインクルーシブ教育の現状
3 インクルーシブ教育実践校の訪問から
4 日本でインクルーシブ教育が進まない理由
5 インクルーシブ教育実践のために必要な事
第2章 つながりや関わりの中で生きるホリスティックな保育
-共生社会の実現に向けて-
1 ホリスティック教育への希求
2 レイチェル・カーソンの思想の再評価とホリスティックな保育
3 幼児教育の歴史的展開に見るホリスティックな保育
4 ホリスティックな保育を実現するために
第3章 医療的ケア児の受け入れにあたって
-保育所での実践を通して-
1 保育所等での医療的ケア児の受け入れにあたって
2 医療的ケア児の保育所での生活
3 医療的ケア児と一緒の保育実践
第4章 インクルーシブな教育実践のための子ども理解
-津守真の思想に着目して-
1 社会変革を含む理念としてのインクルージョン
2 社会モデルの視点と日本の教育におけるその欠如
3 津守真の子ども理解の思想と実践
4 おわりに-インクルーシブな教育実践に向けた示唆と課題-
第5章 共生社会を担う社会教育活動の役割と課題
-成人期の学習活動の事例から-
1 概念としての「社会教育」をめぐって-日本社会との違いから-
2 おとなが学ぶということ
3 成人期の学習活動を考える-日本と開発途上国の「実践」から-
4 共生社会の創造に向けた社会教育活動の課題
第6章 インクルーシブ・カレッジの実現に向けて
ー自然を通したプログラムの可能性
1 共生社会の実現に向けた大学への期待
2 共生社会の実現における自然を通したプログラムの可能性
3 自然を通したプログラムによる大学を拠点とした共生の可能性
第7章 震災後の福島で考えた共生
1 福島 大学子どもメンタルヘルス支援事業推進室の活動
2 ペアレント・プログラムの活動
3 トラウマケアの研修と避難の聞き取り
4 まとめ-公認心理士の視点から考える地域での共生ー
第8章 袖振り合うも多生の縁
-東日本大震災後の福島県いわき市から考える-
1 福島県浜通り地方といわき市の社会構造
2 いわき市の分化
3 市民の共生問題
4 震災の語りにくさ
5 消極的な共生とその課題
第9章 犯罪を犯した人の「共生」は可能なのか
1 現在の犯罪の状況と再犯者率
2 罪を犯した人のその後の困難と更生保護ボランティア
3 忘れてはいけない犯罪被害者の存在
4 まとめ-罪を犯した人を「排除」することはそもそも可能なのか-
第10章 共生社会とソーシャルワーク
-共生社会を地域で創るコミュニティソーシャルワークの展開-
1 共生社会の姿
2 ソーシャルワーク専門職のグローバル定義
3 共生社会につながる福祉パラダイム
4 障がい者を支える理念を踏まえた共生社会の原理
5 共生社会を地域で創るために
第11章 民生委員のエスノグラフィ
-地域で共に生きる-
1 はじめに-民生委員当事者として-
2 民生委員になるまで
3 活動のスタートライン
4 おわりに-民生委員の姿を紹介して-
第12章 共生社会の光と影
1 共生社会の可能性と課題とは
2 共生社会の光-共存から共栄へ-
3 共生社会の影-潜在するリスクと課題-
4 結論-共生社会の未来に向けて-
書籍に関する
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