令和2年9月1日
新型コロナウイルス感染症対応を経験して
大阪検疫所所長 柏樹悦郎この著者の書いた書籍
新型コロナウイルス感染症の侵入に備える国際空港やクルーズ船での対応など,検疫がクローズアップされているが,今般の対応には,近年みられなかった点が2つある。
ひとつは,国内で多数発生している段階においても,検疫強化を継続している点である。検疫法の目的は「国内に常在しない感染症の病原体」の国内侵入防止である。2009年の新型インフルエンザにおいては,国内の流行が広がっていくにつれて検疫措置を段階的に縮小していった。
もう一点は,都道府県境をまたいだ移動の自粛が求められる中,国内路線の空港・港においても,サーモグラフィー等を用いた体温測定が一部の県で行われている点である。国の機関である検疫所が行っている検疫法に基づいた措置とは違い,あくまでも乗客への協力要請という形ではあるが,2009年にはこのような取り組みは行われなかった。
これらの背景には,新型コロナウイルス感染症のワクチンがいまだなく,また重症患者に対する有効な治療法も確立されていないことなどから,急激な患者の増加により,地域医療の崩壊を招く恐れがあることがあげられる。早い時期に従来の抗インフルエンザ薬が有効であることがわかった2009年の新型インフルエンザとの違いはここにあると考える。検疫の視点でみたこのような状況は,歴史をさかのぼれば,コレラに対応した明治時代の状況と似ている。
インドのガンジス河デルタ地帯の地方病であったコレラは,19世紀初頭にインドを出て,世界各地で大流行した。日本においても,江戸時代末期よりたびたび海外から流入し,国内で大流行を引き起こした。年によっては全国の患者・死者数が10数万人に及び,時に各地に甚大な被害をもたらすなど,明治時代は,コレラの蔓延が大きな社会問題であった。
明治政府は欧米で行われていた対策を学び,コレラの蔓延防止策とともに検疫制度を法制化し,地方政府である道府県が海外での発生動向に応じて出される内務省からの指示を受けて,臨時にその対応にあたっていた。
当時の道府県は,海外の汚染地域から来航する船舶だけでなく,国内に侵入した後には,国内の汚染地域からくる船舶・汽車に対しても検疫を実施した。ただ,海外からの船舶に対しては,内務省の指示を待ってからの対応では侵入を食い止める時期を失することが多いため,明治32年の海港検疫法制定によって常時検疫を行う海港検疫所が創設され,それが今日の検疫所の原型となっている。
コレラによって,感染症の法体系が整い,病院や上下水道,火葬等遺体処理施設の整備,衛生教育の推進など,コレラのような腸管感染症が蔓延しにくい衛生的な社会づくりが進められる原動力になったといえるであろう。
さて,新型コロナウイルス感染症は,どのような社会へと導くのであろうか。
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