
令和8年1月1日
日本の保育学の礎と対話しつつ未来を拓く
一般社団法人日本保育学会会長 東京家政大学教授 戸田雅美この著者の書いた書籍
日本保育学会は,1948(昭和23)年に,倉橋惣三(初代会長)によって創設されました。倉橋は,1882(明治15)年に生まれ,1913(大正2)年,東京女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)の講師となり,その後,同附属幼稚園の主事(園長)を長年にわたり兼任しました。その間,附属幼稚園において,子どもの立場に立って考え出し,実践した革新的なエピソードは保育学の世界ではよく知られています。
倉橋の代表的な著書に『育ての心』があります。1936(昭和11)年に発刊された本書の序の冒頭には,「自ら育とうとするものを育たせようとする心,それが育ての心である」と書かれています。つまり,幼い子どもは,自ら育とうとする存在であること,そして,その“自ら育とうとするもの”である一人ひとりの子どもに即して育たせようとするのが保育であると述べています。ともすると,この言葉は,生物学的な人間の発達の姿,例えば,座る・歩くなどで捉えられ,それに即して支えることが保育だと受け取れるのかもしれません。しかし,この“自ら育とうとするもの”という言葉には,子どもは幼いながらも自分は「どうしたいか」,「どうなりたいか」など,人としての意思をもった,きわめて人間的な存在であるという意味が込められた言葉だと理解できます。
一般に,子どもは「未熟」で「不完全」な存在であり,教育すべき対象です。具体的に言えば,大人が教え導くべき対象として捉えられます。そして,自ら考え,意見をもち,成功も失敗も自分のものとして,試行錯誤しつつ周囲とかかわって育っていく存在として,そこに即して実践するのが保育であるという思想は,当時としては画期的なものといえましょう。
これは,子どもが大人と同じように,人間としての権利,例えば「意見表明権」などの人権をもつことが広く確認されたのが,1989(平成元)年に国連総会において「子どもの権利に関する条約」が採択されたという事実からも明らかでしょう。そして,近年,日本では,2022(令和4)年に「こども基本法」が定められ,2023(令和5)年に「幼児期までのこどもの育ちに係る基本的なビジョン:はじめの100か月の育ちビジョン」が策定されました。
こうした現在の子どもと保育にかかわる様々な動きの礎には,倉橋の言葉にある“自ら育とうとするもの”という思想があると考えます。
倉橋は,1945(昭和20)年『育ての心』再版の序に,「国敗れて,いちばん気の毒なのは子どもである。がまた,いちばん希望をもたせるものも子どもである」と記しています。子どもが一人の人間として意思をもち“自ら育とうとするもの”だからこそ,子どもは「希望」であり得たのだと言えます。倉橋の思いとそれに対する共感が,1948(昭和23)年,まだ戦後の混乱最中の時期,本学会が創設された原動力となったのでしょう。倉橋のこの言葉が示す保育思想は,日本の保育学の礎として引き継がれています。
新年を迎え,2026(令和8)年は,本学会の第5代会長である津守眞の生誕百周年にあたります。津守は,倉橋の思想を発展的に継承した研究者として知られています。中でも,津守式「乳幼児精神発達診断法」の開発は,実験場面ではなく,子どもの日常生活に即しつつ,科学的な研究による発達診断法を確立しており,それは現在もなお高い評価を得ています。
しかし,津守自身は,生前,この診断法を否定し,新たに人間学としての保育学を目指すに至り,障害のある子どもたちとの保育実践と研究に後半生を捧げました。
倉橋は,大学に入る前から幼稚園に入り浸って子どもと遊び,保育実践の場に身をおき,園長としても活躍していました。
津守もまた,実践の中に保育学を求め続けました。
厳しい少子化に向き合う現在においても,保育学は,子どもを“自ら育とうとするもの”という思想を礎とし,子どもと保育実践に即しつつ,学問的発展を目指していきたいと考えています。
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