平成24年1月1日
栄養・食糧学と生活習慣病予防
杏林大学教授 公益社団法人日本栄養・食糧学会会長 石田 均 この著者の書いた書籍
明けましておめでとうございます。さて,日本栄養・食糧学会は,昨年の9月1日に公益社団法人への移行を果たしました。これまで続いたおよそ70年に及ぶ歴史を基盤として,社会活動での公益性のさらなる拡大を目指したいと存じます。興味深いことにこの学会の一つの特徴として,基礎的な分野の研究者のみならず,私のような臨床医も深くその活動に関与している点があげられます。そして栄養・食糧学での成果をもとに,「生活習慣病」の発症予防や治療の方策を継続的に探究しています。
新年から少し堅苦しい内容の話になるのですが,この中の代表的な疾患である糖尿病の治療に関し,従来一番重要な生活習慣の是正の基盤を成す食事療法について,最近になり何かと話題になっている「インクレチン」の意義を中心に,私なりの考えを述べてみたいと思います。
まずこのインクレチンについて,その歴史と概念を説明したいと思います。不思議なことにはるか百年近くもの前から,腸管の抽出物の中に,食後の血糖値の上昇を抑える物質が存在することが知られていました。それは,インクレチンと名付けられました。しかしながら,しばらくの間は本当の姿が不明のままでした。しかも不幸なことに,その後に膵臓から抽出され,かつ強力な血糖降下作用をもつ「インスリン」の陰にかくれて忘れ去られていたのです。
ところが,今から30年程前に,インクレチンとは小腸から分泌される消化管ホルモンであることが判明しました。そして食物の摂取によって内因性に分泌が増加し,そして膵臓のβ細胞からのインスリン分泌を促進する働きを有することが明らかになりました。しかも摂取した食事の中の糖質量に比例して,これらの作用が増強されることもわかり,中でもGLP-1というホルモンが,この働きに重要であることが示されました。
さて日本人の糖尿病の有力な遺伝素因として,先程述べた膵臓のβ細胞が脆弱であり,特に糖質を摂取した後のインスリン分泌の増強メカニズムがうまく働かないことがわかっています。ですからこの分泌を増強してくれるインクレチンの作用を補うことが,糖尿病の治療に結びつくことになります。そして最近のインクレチン関連薬の開発へとつながりました。
また,実は糖尿病と診断される前,つまり未だ「予備軍」と言われている状態から,β細胞には障害がすでに生じていることも最近になってわかってきました。幸いなことにこれまでの基礎的な研究によって,GLP-1はβ細胞に存在している受容体を介して,それらの障害をうまく取りのぞいてくれることが明らかにされました。ここでは詳細なメカニズムについては触れませんが,高血糖の存在によって引き起こされるβ細胞内の酸化ストレスの増加を,いくつかの機序で解除することが推測されています。
すなわち,インクレチン関連薬での治療は,見方を変えれば日本人の有力な遺伝素因によるβ細胞障害の少なくとも一部を克服する手段となり得ることが考えられます。そして「和食」に代表される日本の伝統的な食文化に根差した食習慣との相互作用によって,個人の生活習慣の是正による食事療法の治療効果を,さらに増強し得ると推測されます。
今後の課題として,糖尿病の食事療法そのものの意義を確立するために,糖尿病の治療はもとより発症の予防に対する寄与も含めた,より大規模かつ長期にわたる臨床研究による科学的根拠の確立と,診療ガイドラインの作成が早急に望まれるところです。さらに糖質の摂取量に応じたインスリン分泌促進を司るβ細胞でのインクレチンシグナリングについて,食事療法の作用機構の中での役割の詳細を科学的に明らかにすることも必要と思われます。そしてこの解明が,栄養素バランスの面から眺めた糖質が食事の中で占めるべき割合の意義と,その結果として健康寿命の延長に結び付く食事療法の重要性を改めて問ううえで重要なポイントになり得ると推測されます。
最近になり,日本の食文化を世界の無形遺産として登録すべしとの動きもあると聞き及びます。したがってこの食事療法が,従来の単なる糖尿病合併症の管理を含む「治療の出発点」から,究極的には糖尿病発症そのものに対する「予防の出発点」へと守備範囲が拡大することを,日本のみならず世界中の糖尿病の克服を目指す早期治療確立の立場から切に願うものです。
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