令和7年9月1日
言語障害とことばの起源
杏林大学教授 石毛美代子この著者の書いた書籍
言語聴覚士である筆者が,日頃,様々な言語障害に接する中で驚かずにいられないのは,ことばを話すという行為のすごさである。
人はことばを話すとき,肺,胸部や腹部,喉,口にある100以上の筋肉の協働によって1秒間に10個もの音をつくり出す。音の組み合わせと文法規則を巧みに操り,あらゆる情報,意志,感情を伝え合う。まさに超絶技巧であるのに,人は特に意識もせず,さほどの苦もなくこのような行為を行う。いったい人はいつからどのようにしてことばを話すようになったのか。
「ことばの起源」が科学研究の対象となったのは19世紀後半である。ダーウィンの進化論によって「神」の存在を前提とせずに生物の生態や行動が説明できるようになり,「ことばの起源」は言語学や歴史学といった人文科学だけでなく,医学や生物学のような生命科学の研究対象になっていった。言語障害に関する科学研究もその頃始まり,発展してきた。
例えば、1861年フランスの医師ブローカは,聞いたことばは理解できるが発することばは「タン」という一言に限られている患者に出会った。今日でいう失語症である。ブローカはこの患者の死後に脳を解剖し,ことばの制御にかかわる脳の部位,いわゆる「ブローカ野」を発見した。
100年余り後の1990年代には,英国のK.E.というイニシャルの家系で,3世代にわたり多くの言語障害がみられたという報告が注目された。言語障害は出現パターンから遺伝によるものと考えられたが,2001年にオックスフォード大学の研究者たちによって「フォークヘッドボックスタンパク質P2」(通称FOXP2遺伝子)の変異に起因していることが突き止められた。
現在,ブローカ野やFOXP2遺伝子はそれだけでことばを決定する要因とは考えられていない。しかし,ブローカ野は脳における言語中枢として,FOXP2遺伝子は言語や会話に必要な協調運動の習得にかかわる言語遺伝子として象徴的な存在である。
1980年代,化石証拠に基づく古人類学分野の研究からブローカ野がアウストラロピテクス類やホモ・ハビリスにも存在したことが明らかとなり,絶滅した人類が何らかのことばを話していた可能性が指摘されている。また,2000年以降,DNA解析技術の飛躍的進歩により,FOXP2遺伝子は,絶滅したネアンデルタール人だけでなく,人類以外の多くの動物にも存在することがわかっている。
「ことばの起源」は今なお謎である。しかし,人がある時点で突然ことばを話すようになったと考える科学者は少ない。ことばは,社会的知能,道具的知能,心の発達といった言語以外の機能や,脳や発声器官の大きさや形態といった身体的特徴とともにモザイク的に進化したとの考え方が優勢である。「ことばの起源」は今や「ことばの進化」や「人類の進化」と深く結びついたテーマになった。
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