令和2年1月1日
学術的隠語の世界と一般社会
茨城大学 教授 瀧澤利行この著者の書いた書籍
何年か前,勤務地の自治体のいくつかの委員会に出席していると,「コウセンチン」「サコウジュウ」といった,音だけ聞くとその中身を容易に想像できない言葉が飛び交っていた。それぞれ「高齢者専用賃貸住宅」「サービス付き高齢者向け住宅」の略語だが,一度聞いただけでは一般の方々は何を意味するのかわからないであろう。
学術や行政,あるいはもっと広くいえば各種の業界や専門職の世界には,その領域の人々には知られているが,領域外の人々には想像しにくい言葉が存在しており,それは「隠語 jargon」と呼ばれる。厳密にいうと,隠語と先にあげたような略語や短縮語は区別されるべきであるが,略語や短縮語はしばしば隠語化して専門外の人々にとってその領域を理解することを妨げる方向に働きやすい。
医学の世界は古くからこうした学術的隠語が「豊か」であり,日本ではドイツ語に語源をもつ医学的専門用語の短縮語が医療関係者の間では多く通用し,ある種の言語文化を築いてきた。虫垂炎は「アッペ」,結核は「テーベー」,白血球は「ワイセ」など数えきれない。
この傾向は自然科学系に限ったことではない。例は省くが,社会科学系にも様々みられるし,行政用語や法律用語でもこうした類いの短縮語や略語が隠語化している例は数多い,各専門領域の中には,こうした隠語をできるだけ排して,通常聞いただけでわかるような言い回しを使うように同業者に働きかけていることもあるようだが,なかなか浸透せず,「隠語文化」は根強く残っている場合が多い。
隠語文化が各領域に存在する理由は,いうまでもなく他領域から自ら属する領域を区別して,その中で同一性を維持しようとする集団的な凝集性に根ざしている。これらを抵抗なく駆使できるようになることを,その集団への帰属性の証であるかのように捉え,それに習熟することを意識的または無意識的に指向することが隠語文化を支えている。加えて日本が明治以降に欧米の科学・技術を積極的に摂取することでその進歩を図ってきたことが,外来の術語を日本語に翻訳する際に,忠実に訳したために言葉が長くなり,通常の使用に際しては必ずしも実用的ではなかったため,短縮語・略語が頻用されるようになったことも影響しているだろう。いずれにせよ,自分の属する領域を他から区別し,ある意味で閉鎖的な言語世界を形成することによって,自領域の独自性を維持しようとすることが,隠語文化を残している背景にあるのだろう。
一方で,科学・技術の世界は複合化し,学際化が著しい。隠語文化が根強かった医療の領域においても,できるだけこうした隠語を用いずに日本語の術語を用いて,平易に「カルテ(これも本来は隠語の一種である)」を記述するようになっている。
大学の授業でも,基盤的・概論的授業ではできる限り学生の理解しやすい言葉で講義をすることが推奨されつつある。学問のあり方が一般社会の視線によって絶えず見直され,また自らが新しい方向性を見いだしていくためには,共通の平易な言語世界に自らを開いていくことが必要になっているのではあるまいか。時には意識して自分が隠語の世界に浸っていないかを省みることがあって然るべきであろう。
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