令和3年9月1日
1人の健康と集団の健康
女子栄養大学大学院教授 緒方裕光この著者の書いた書籍
「健康」と「不健康」の境界線ははっきりしていない。しかし,仮に「健康」に向かう何らかの方向性があるとすれば,1人1人の人間が健康に向かうことで集団の健康につながり,逆に,集団として健康であることが個人の健康を支えることになる。このことは,感染症流行時の集団免疫という考え方を理解すればよく分かる。公衆衛生学は,集団の健康を通じて1人1人の健康を守っていこうとする学問体系である。
では,この公衆衛生学が指す「集団」とは何を意味しているのだろうか。
公衆衛生学の歴史上,疫学を最初に実践したのはイギリスの医師,ジョン・スノウであることはよく知られている。1854年にロンドンのブロードストリートでコレラが流行した際に,彼は当時まだ確立していなかった疫学的手法を用いて,その原因が井戸水の汚染にあることをつきとめた。これを受けて,その井戸のポンプを止めたことによりコレラの流行が終息したといわれている。ただし,残されたデータからは,井戸のポンプを止めた時点でコレラによる死者数はすでに減少傾向にあったため,ポンプを止めていなかったらどこまで流行が続いたのか,再流行があったのかなどは,今となってはわからない。このときの対象集団は,ロンドンの一角に住む住民である。
ロンドンのコレラ流行から約100年後,アメリカをはじめとする先進諸国では,1950年代から肺がんの死亡者数が急増していた。これは,1920年頃から少しずつタバコの消費量が増え,第二次世界大戦で兵士たちの間に喫煙習慣が広まったことが原因といわれている。しかし,この喫煙と肺がんの因果関係は,その後何年も経ってから明らかになったことである。当時は,非常に高い割合の男性が喫煙者だったこともあり,タバコ原因説は社会に受け入れられなかった。
喫煙という生活習慣が,肺がん死亡率の増加に結びつくには20年以上のタイムラグがある。1970年頃から喫煙率は減少し始め,1990年以降肺がん死亡率の減少につながっている。この場合の集団とは,アメリカやイギリスなどの先進諸国の国民である。
これらの事例以外にも,公衆衛生学の発展のポイントとなった歴史上の事実は数多くあり,公衆衛生学が対象とする集団は時代とともに広がってきていることがわかる。1人の人間が集まれば小さな集団に,小さな集団が集まれば大きな集団に,そして最後は地球全体の住民にいきつく。公衆衛生学は,その時代に応じた規模の集団に対して,その時々で初めて直面する健康問題に対処してきた。
したがって,公衆衛生学を実践する者とその対象者を含めて,人間集団全体が過去からの経験を継承し,それをさらに将来の集団に引き継ぐことになる。
現在の新型コロナウイルス感染症の流行に対する様々な対策の試みは集団の経験として蓄積されていき,その一部は公衆衛生学を含む科学的分析を通じて人類の大きな知恵となるだろう。
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