平成30年9月1日
保育をビデオに撮る・撮られる
東京家政大学教授 岸井 慶子この著者の書いた書籍
ビデオで保育を撮り始めてほぼ30年が経過してしまいました。現在も模索,継続中ですが,その中で感じたことについていくつか述べたいと思います。
まず保育を撮られる保育者の意識の変化です。今でこそ,気軽に保育をビデオで記録したり,それを研修場面で活用することは,特別なことではなくなってきていますが,30年前はまだ一般的ではなく,ビデオに撮られることへの拒否的感情,批判も多くありました。以前はカメラを持った者が保育室に入った途端,保育者や子どもたちは一瞬身構えて,緊張した表情に変わっていきました。
では,撮られる緊張感はないほうがよいのでしょうか。できるだけ緊張を与えないように撮ってきた者としては複雑な思いがあります。撮られる(撮る)ことに緊張があったときのほうが,保育者の思いと映像の間に段差があり,その段差が撮影後にビデオを見ながら話し合うときの豊かさをもたらしてくれたように思うのです。外側から記録した映像なぞ及ばないくらい深く考えられ,鍛えられた保育者の判断や行為に圧倒されることが減ってきたように思うのです。
つまり,保育者自身の視点が,ビデオの視点に同化してしまうように感じるのです。撮られた映像は本当の保育なのでしょうか。「違う」という声はないのでしょうか。そんなことを感じるのは,撮り手である私自身と撮られ手である保育者との関係が変わり,保育者が声をあげにくくなっているからかもしれない,という反省的危惧を抱きながら模索しています。
「そうせざるを得ない」状況の中で,精いっぱいの判断と行為を行っている保育者自身の表明と,「そのようにしかみえない。そのようにしか考えられない,感じられない」という観察者の表明がビデオで保育を語り合う醍醐味だと考えます。
保育者はときに迷いつつ,一瞬の判断や決断を選び取り,喜び期待し,様々な感情を抱えながら保育しています。そしてそのすべてを,内側から観察し,共感する,もしくは批判する「もう一人の自分」が存在し,一緒に保育するのだと思います。この,保育者としての成長に欠かせない「内なるもう一人の自分」育ちに,撮られる緊張感が一役買っていたのではないかと考えるようになりました。
そのような意味で,保育者自身が「撮る」ことは,よい点も非常に多くありますが,一つの心配として自分の保育を自分の内側から見る力や語る力を弱めてしまうのではないかと思うのは杞憂でしょうか。特に,まだ「内なるもう一人の自分」が十分に育っていない新任の保育者や実習生にカメラを持たせて記録することに疑問をもっています。また,担任などの保育者が「撮る人」になることに関しても,もっと注意深く考えなければならないとも思っています。
ともあれ,保育の共同省察にとって,保育者の成長にとって重要なビデオ活用を,さらに試行錯誤しながら開発・洗練していく必要があると考えます。
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