平成26年9月1日
東日本大震災以降の心模様
石巻専修大学学長・理工学部教授 坂田 隆この著者の書いた書籍
東日本大震災当日,私は北海道大学のセミナーに出席していた。地震が起こったのは,私の次の演者の講演が始まったときであった。
セミナーは結局最後まで進んだ。休憩のときにワンセグで岩沼市上空からの画像を見た。知っている地域であったから,被害規模は想像がついた。手のひらに汗がにじむ程度の興奮はしていたが,妙に醒めていた。現場での指揮を執れないことになったが,後悔をしても役には立たない。次に何をするのかが重要なことは,高校と大学のボート部で学んだ。
16時頃に大学と電話がつながった。学内の死傷者はなし。施設・設備にも深刻な被害はなく,安全確認をして実験棟を閉鎖したこと,自家発電が稼働し,上水タンクの水の管理をしていることなどの報告を受けた。避難者が来たら入ってもらうように伝えた。
急性期のヤマは乗り越えたと思った。学内の学生・教職員に死傷者がいなかったからだ。しばらくは極めて不自由な暮らしになるだろうが,水と備蓄食料があるから生命にはかかわらないと判断した。一方で,大学に籠城している人たちの力になれないこともわかった。彼らには申し訳ないが,できないことはできない。理工学部長をはじめ,能力のある管理職が現場に居た。できることをするしかない。人目を気にすることはやめた。
翌日の朝,札幌から神田神保町の法人本部に移動し,安否確認や学生・教職員の支援,入試などの手当をした。大学にいる人たちは,最初は毎日100kcal,その後も500kcalほどしか食べていなかったが,わたしは普通にご飯を食べた。一年間は病気をしないことに決めていた。
一週間後に大学に戻り,みんなと同じ救援食をいただいて学長室でしばらく暮らした。学内の教職員の士気は高かったが,無理をしているのは明らかだった。ほとんどが被災者だった。学生が六名亡くなった。子を亡くした親の嘆きは想像を絶する。生まれた順に死ぬことの尊さが心にしみた。
被災した学生の多くは心に深い傷を負った。しかし,だれが傷ついているのかはわからない。外見は元気なのだ。しかし,奨学金の募集がきても応募者がいなかった。応募する気持ちになれなかったのだ。職員が被害のひどかった学生を呼び出して,ほぼ強制的に記入させた。
私は遺体を見ないようにしていた。心に傷を負ってはいけないと考えたからだ。身の回りに人的被害はなく,一階は浸水したが,二階で暮らせた。石巻の市街地では平均的な被害だ。しかし,罹災証明を申請する気持ちになるまでに一か月半かかった。理由はうまく説明できない。数日停電しただけの被害で被災証明をもらって,自動車道を無料で走る人たちには大きな違和感をもった。こうした感覚は,当事者でなければわからないのだろうし,当事者の間でも一人ひとり違う。そのことを前提にした施策を考えることが,私たちの大きな課題だ。
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