平成26年1月1日
「子どもに寄り添う」の意味するところ
常葉大学短期大学部准教授 永倉 みゆきこの著者の書いた書籍
保育の授業の中で学生に子どもとのやりとりについて書いてもらうことが多いが,その中に少々気になることがある。例えばこんな具合である。
「…まず,『嫌だったよね』と気持ちに寄り添ってから『どうしてこうなったかな』と聞きました」
なるほど,書かれたことに間違いはいないのだろうが,「嫌だったよね」とその子の気持ちをなぞることができても,それが果たして「気持ちに寄り添った」ことなのだろうか。
「共感しました」など同様の言葉はまだある。これらはどれも保育において鍵になる言葉であるが,言葉から本来の意味が抜け落ちて,ある一つのテクニックを表す言葉になってしまっているような気がするのは私だけだろうか。
臨床哲学家の鷲田清一は,ケアの現場での「聴き取り」は,相手と文字どおり呼吸を合わせることから始めると言う。「声の肌理(きめ)を聴くためには,『あなた』にふれるためには,ことばをもういちど身体の振動にまで連れ戻さなければならない」(河合隼雄・鷲田清一『臨床とことば』朝日新聞出版)と言うのである。
これを保育に置き換えて考えてみるならば,一旦自分の大人性(教えたい,育てたい気持ち)を忘れ,子どもの思いに限りなく近づこうとすることで初めて子どもに寄り添ったと言えるのではないだろうか。こちらのあり方が揺さぶられるような思いをしなければ始まらないのである。しかし多くの学生は,そんな覚悟もないままに共感したことにしてしまう。「共感する」「気持ちに寄り添う」という重い言葉を雑に使ってしまうことに,私は違和感を覚える。たかが言葉,されど言葉である。
ある学生のレポートの中に「『お姉さんにこれあげる!』と言われ,砂のプリンをもらいました。もちろん子どもも砂とわかっているけれど,目の前で地面にこぼしていいかドキドキしました。するとそれを見て,『セノバ(デパート名)に美味しいプリンがあるから今度一緒に行こう』と言われました。また会えるとは限らない私を誘ってくれて嬉しかったけど,少し切なかったです」とあった。
学生は,その子のごちそうしたいという気持ちを嬉しく思いながらも,現実の砂のプリンをどうしていいかわからずドキドキしながら迷い,一方の子どもは,食べたふりができずにいる学生に,さらに「今度一緒に(本物のプリンを)食べに行こう」と実現しそうもない現実の方法で慰めるのである。
両者は,現実と空想の世界を行ったり来たりしながら,確実に心を伝え合っている。互いに,相手に気持ちを伝えるためにはどのようにしたらいいのか考え,言葉を探している。これこそが本当に「伝え合う」ことであり「相手に心を寄せる」ことなのではないだろうか。
相手の言ったことをじっくり聞き,自分の言いたいことをきちんと言葉を選んで言う。それは,そんなに容易なことではない。しかし,それは身近な所から始まっているはずだ。自分の日常を見つめ直すことから,保育は始まっている。
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