平成28年9月1日
「疫学」と「統計学」
奈良県立医科大学副学長 車谷 典男この著者の書いた書籍
医学分野のほとんどすべては,疾患の原因究明に,個人を臓器,組織,細胞,たんぱく質,遺伝子へと細分化する。これに対し,疫学は個人を集めて集団を構成し,集団を観察することによって,疾患の原因を究明する点で,同じ医学の中にあって方法論が他と決定的に異なる分野である。
肺がん患者1人をいくら精緻に調べたところで,肺がんの原因の1つがタバコであることなどわかりはしない。肺がん患者の集団と非肺がん患者の集団との喫煙割合に差があって,初めてわかることである。
19世紀半ば,大英帝国の首都ロンドンで,大流行を繰り返すコレラなどの伝染病に対抗すべく,科学者,公衆衛生関係者,医師たちがLondon Epidemiologic Societyを設立する。細菌の公式発見に先立つこと20年余である。流行を意味するepidemicと,学を示すologyから合成されたepidemiologyという学問が,このときから本格的に始まることになる。
一方日本では,明治維新を経て,ドイツ医学が次々と輸入されてくる中,軍医総監でもあった森鷗外が,Epidemiologie(独語)を疫癘学と訳した。コレラなどが同じく日本でも社会問題になっていた頃で,伝染してはやる(流行)病を意味する「疫」と「癘(れい)」があてられた。時代が下って戦後,日本で初めての専門書が発刊されるなどして,「疫学」が日本語訳として定着した。
Epidemiologyすなわち疫学は,伝染病が猛威を振るっていた時代に,伝染病の流行の状況や様式,流行する理由や予防行動,さらには病因そのものを究明する学問を指す言葉として,誕生したことになる。そしてその原理と方法を進歩させながら,がんの疫学,認知症の疫学,何々の疫学などと,多種多様な疾患まで研究対象を広げ,疫学は今や極めて重要な医学分野の1つとなった。健康長寿の疫学などと健康の維持・増進も研究対象である。また治療効果の検証も疫学が受けもつ。
しかし,こうした疫学と統計学は,全然違う学問体系であるにもかかわらず,しばしば混同される。疫学と呼ぶべきところを,統計学と呼んでしまう誤りである。
混同の主たる理由は,疫学が集団を対象としていることに起因する。対象集団の特徴を説明するためには統計量を用いることになる。「某地区の住民の血圧の平均値はこれこれ」といった具合である。調整オッズ比など疫学指標の算出に多変量解析なども用いることになる。そうこうしていると,疫学であったはずが,いつの間にか統計学と思い込んでしまうことが,学生や初心者では起こる。
疫学は,データをどう集めるかといった調査計画(研究デザイン)に核心があるのに対し,少なくとも疫学で用いる統計学は集めたデータをどう要約し解析するのかに役割がある。
統計学と違い疫学は一般に馴染みが薄いかもしれない。しかし今や医療のエビデンスは疫学で決定評価される時代になった。重要で奥行きの深い学問である。
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