建帛社だより「土筆」

平成28年9月1日号

栄養なくして生命なし

十文字学園女子大学副学長・教授  志村 二三夫この著者の書いた書籍

 利子見よ空即是色花ざかり(小笠原長生)
 ひ観じて!姿かたちの定かでないもの(空)からさやかなもの(色),花盛りへの変化(へんげ)を支える栄(さかえ)の養(やしな)いを。
 若心経からとったこの句は,栄養の本質を教えてくれる。例えば稲。根から水・無機窒素源・ミネラル,葉から炭酸ガスを吸収し,光エネルギーを活用して,炭酸・窒素同化を行い成長する。花盛りとなり,実を結び,穂を垂れ,やがて朽ちる。空から色,色から空への変化がここにある。
 方,地に落ちた籾は,蓄えた多糖・たんぱく質等を自らの酵素で分解し,姿かたちを失うが,生成した単糖・アミノ酸等は,籾が発根・発芽して色へと変化し,炭酸・窒素同化を行うまでの栄養を担う。
 た,食物となる生物はみな,最終的に他者の自己化過程=消化により生命を失い,空へと帰す。しかし,消化産物は摂食者の体内に吸収され,空から色へと変化してその生存・活動を支える。
 命とは生物に共通な性質を抽象化した概念である。すべての生物の基本単位である細胞は,自らの設計図となる遺伝子とその発現の仕組みをもつ。ゆえに,生物は,DNA makes RNA makes Protein makes Cell makes Lifeの流れの中で,自ら身体をつくり,維持する自己組織化を行い,生存・活動する。
 力学によると,自己組織化は,外界から得た物質のエネルギーを変換する系が,老廃物や熱を排出しつつ絶え間なく働き,その系自体をつくり,維持する動的・自律的秩序形成を行う物質系で達成される。
 学物質系である生物が,この原理に沿い自ら身体をつくり,生存・活動し,健康を維持・増進する営み・現象,これが栄養である。したがって,栄養は生命体の自己組織化の基盤であり,そのおかげで,私たちは「エントロピー増大の法則」による乱雑・均一化(色→空)というつれなさに負けずに生きていける(志村:カレント人体の構造と機能及び疾病の成り立ち1,第3章生体エネルギーと代謝)。栄養なくして生命なし,この命題はきっと正しい。
 養学は栄養素の発見・機能解明により地歩を固めた。さらに,応用・実践の科学・技術として,人間の栄養の主要手段である食(独立栄養・避腸栄養は非食栄養。食≠栄養の必須条件)が健康の維持・増進に資すよう,食品中の栄養素の質と量を示した食品成分表,摂取すべき栄養素の質と量を示した食事摂取基準等をつくり上げた。これらに依拠する栄養の実践活動は人類の福祉に貢献し,今後もさらなる成果が期待される。
 方,栄養学は,今花盛りの生命科学の主要分野のはずが,「科学研究費助成事業(科研費)審査システム改革2018(報告)」では,独立した分野に位置づけられていない。人間栄養学の重要性は論をまたないが,あくまでもヒトという生物種,人間という社会・文化的存在の栄養の学問,いわば特殊栄養学である。「栄養なくして生命なし」の観点からの包括的科学・一般栄養学の体系構築も大きな課題と思う。栄養の実践と科学に携わる若い人達による栄養学の花盛りを心から願う。

目 次

第104号平成28年9月1日号

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